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民訴法119条にいう「告知」とは?

民訴法119条にいう「告知」とは?④

このように考えると、「・・・民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。」というのは、実際にはむしろ「結論」であって、その結論に至るまでの考察の過程こそが「理由」であるということが明確になります。
 しかし、「主文」というものがあり、これが「結論」として位置付けられているために、そして、「民訴法318条1項により」と尤もらしく条文が掲げられているために、一見「理由」が書かれているかのような錯覚を起こさせるだけです。

 

 しかし、それはまやかしであり、最高裁の自己欺瞞に過ぎません。

 

 例えば、何かの試験で、「本件申立は上告受理されるべきか。上告不受理とする場合はその理由を記せ。」とされたのに対し、「申立ての理由によれば、民訴法318条1項により受理すべきものとは認められないから。」等という「理由」を書けば、0点確実でしょう。「“何故そう判断したのか”という“理由”を聞いているんだ。人をおちょくっているのか!」と、出題者の逆鱗に触れること必至です。

 

 このように、上告不受理決定の調書というのは、形式面においても実質面においても、極めてお粗末な物です。
 実質面を改善することはそう簡単にできることではありませんから、せめて形式面だけでももう少し体裁を整えればいいものを、と思わずにいられません。
 しかし、結局それらは表裏一体であって、最高裁の各事件に対する、極論すれば、自らの使命に対する姿勢が端々に滲み出ている、或いはこの1枚の文書に凝縮されているということだと思います。
 そして、当事者は、「ああ、彼らにとっては、所詮他人事であり、“どうでもいい事件”だったのだ。真剣に心を向けてもらえなかったのだ。煩わしい日常の機械的事務作業の一つに過ぎなかったのだ。」ということが、ありありと伝わってくるのです。仕事に対する姿勢は結果(成果物)に出る、ということは、働く人間は皆経験として知っていることです。

 

 この元凶を考えるに、「当事者意識の欠如」、「想像力の欠如」というものが非常に大きいように思います。
 もし自分や自分の親しい人が当事者だったらどうなのか、自分の家族が犠牲になった医療過誤訴訟だったら、自分や家族が巻き込まれた冤罪事件だったら・・・それでも、同じように扱われて何の不満も抱かないのでしょうか。虚しさを感じないでしょうか。
 「相手の立場になって考える」こと、これは小学校で教わる「基本のき」です。結局、基本に立ち返るのです。
 そして、この基本が最も重要で、であるからこそ実際は最も難しいということを、自戒の念も込め、改めて思います。

 

 さらに、本件においては、もう一つ、官庁による、「間抜けな」、「誤導的」教示にも遭遇し、怒りが増幅されました。

 

 

 

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