高島俊男氏の著作
高島俊男氏の著作
高島俊男氏を知ったのは、週刊文春で「お言葉ですが・・・」という連載を読んだのがきっかけですが、言葉について、これ程面白いことを書ける人がいるというのは新鮮な驚きでした。
私もそのはしくれですが、およそ、文章を書いて人に読んで貰おうとする人には、同氏の本をよく読み、自分が恥かしい間違いをしていないか、確認作業をすることをお勧めします。
例えば、最近では、「すべからく」の誤用が多いようですが、なんと、私の尊敬する渡部昇一先生までが「すべからく」を誤用しているのには、びっくりしました。「すべからく」を「すべて」の意味で使いたいのなら、素直に「すべて」と言えばいいものを、かっこつけて「すべからく」なんていうから、恥をかいてしまうのです。
高島俊男氏は、「すべからく」が「すべて」の意味で誤用されるようになったのは、「学園闘争」華やかなりし頃の学生の「アジ演説」からではないかと推理していますが、その頃の闘士たちが、今や大学の先生になっているわけで、このところ、大学の先生たちの「すべからく」の誤用が目立つのも、むべなるかなというわけです。
現代は「IT革命」ということで、例の「立ち上げる」という気持ちの悪い言い方を見ない日はないくらいですが、言葉に対する感覚が鋭敏であれば、とてもこんな気持ちの悪い日本語は使えないはずです。
変な日本語を使って恥をかかないためにも、高島俊男氏の本は大いに役立ちます。
(2003・2・7付記:今年1月の日経新聞の「私の履歴書」は、ソニーの大賀会長のものでした。大賀氏のこれまでの人生と、戦後約半世紀に及ぶソニーの歴史がよく分かって興味深いものがありました。しかし、気持ちの悪い、「立ち上げる」が2度も出てきたのにはうんざりしました(「CDの立ち上げ」、「ソニー・フランスの立ち上げ」)。また、この国では、男は、或る年令になると自分の妻のことを「家内」というのが普通のようで、この「私の履歴書」でも、「家内」が2度出て来ました。しかし、私の言語感覚では、「家内」にも嫌悪感をおぼえます。この語には、「妻(ひいては女)は家の中にいるものだ。」という男の身勝手な思いが込められているように感じられるからでしょう。)