血潮(血汐)
血潮(血汐)
「手のひらを太陽に」という歌の中に、「真っ赤に流れる僕の血潮」というところがあります。ほかにも、「若鷲の歌」には、「若い血潮の予科練の・・・」とあり、有名な与謝野晶子の歌には、「やわ肌のあつき血汐にふれも見で・・・」とあります。「潮(汐)」とは「海の水」のことなので、「血」と「海の水」が何故ここで結合されているのか?と不思議に感じます。
三木成夫著「胎児の世界」のお陰で、この結合関係が良く分かりました。同書によれば、受胎から間もない胎児は、文字通り母なる海(羊水)に抱かれ、その中で魚のように呼吸し、身体の外も内も全て羊水(海の水)に満たされながら、次第に、爬虫類へ、哺乳類へと“進化”の過程を再現し、最後にヒトとして、海の水(羊水)をその中に抱えたまま外界に出てくると三木氏は述べています。そして、生れた子の肺の中に残った羊水は血液に吸収されるのだそうです。
同氏は、さらに、「脊椎動物が海から陸へ上陸するとき、彼らは古代の海の水を『いのちの水』として持って上がったのだ。」と述べています。動物の血液は、その「いのちの水」からできたものです。故に、「血潮(血汐)」とは、そのような意味を如実に表現したものだったのです。しかも、この文字は日本人が考え出したもので、中国語にはありません。
また、同氏は、羊水(古代の海)に浮かんだ胎児には、母胎の血液の流れる音が潮騒のように聞こえているのであろうとも言っています。
「母なる海」と言えば、三好達治の詩の中の、「海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」という一節が思い起こされます。
(2008・2・29付記:「血潮」が出てくる有名な唄に、もうひとつ「ゴンドラの唄」があり、「いのち短し恋せよ乙女・・・熱き血潮の冷えぬ間に・・・」とありました。ちなみに日中辞典を引いてみると、日本語の「血潮」は、中国語では、「涌出的血」、「熱血」、「熱情」・・・のように訳されていることがわかります。)