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羅生門

羅生門

2014,1,31

 デヴィ夫人が、映画「羅生門」を、「人生を変えた映画」と賞賛している、ということを聞いたことがこのコラムを書くことにつながった。

 まだ若い弁護士が、映画「生きる」を見て衝撃を受け、弁護士をやめ、役者に転向した、ということがあった。こういうことこそ、真に映画が「人生を変えた」というのであり、単に感銘を受けたという位では、「人生を変えた」とまでは言えないと思う。

 この映画「羅生門」(ひいては芥川龍之介の原作)は、或る人の知見というものは、その人の感覚器官を介して脳に認識されたことであるから、(時には願望が混じって)主観的にならざるを得ず、また、あらゆる人にとってそうであるから、この世に、唯一の、「客観的に正しい認識」などというものはあり得ない、ということを訴えていると思われる。(法廷での証人の証言とは、まさに、これである。)

 また、歴史とはストーリーであるから、当然に、語り手がいる。その語り手が自らの主観を語ることになるのは、理の当然である。従って、或る国の指導者が我が国の指導者に対して「正しい歴史認識」を持て、などと迫ることが如何に滑稽であるかは、自明の理である。自らの知的レベルの低さを世界に誇示しているに等しい。一方、我が国の指導者も、これに対して、ちゃんと反論できないのだから、似たようなものである。(例えば、安重根は、我が国にとっては、死刑になった殺人犯に過ぎないが、あちら側にとっては英雄である。)

 ちなみに、我が国の代表的国語辞典とされている「広辞苑」で「南京大虐殺」を調べると、「・・・南京が占領された・・・」という表現が出て来る。ここを読むと、あちら側の視点で書いているな、ということが直ぐ分る。

 また、「十字軍」を説明するとき、「聖地エルサレムがイスラム教徒に奪われた・・・」と書けば、キリスト教徒の視点で書いていることが明らかである。

 「管見」という言葉も、同じようなことを意味しているのであろう。

 ドイツの哲学者ニーチェも、「世界は認識する者の視点により成り立っている。」と、同じ趣旨のことを言っている。

 芥川は小説により、黒沢は映画で、ニーチェは哲学書で、人間の認識について、根本的に重要なことを教えてくれている。

 英語には、agree to disagree という面白い表現がある。このような場面では、agree to disagree 以外に共存の途はない。

2014,3,5付記

 広辞苑に“藪の中”が登載されており、「関係者の言うことが食違っていて、真相がわからないこと」と、その意味が説明されている。
芥川の小説“藪の中”が発表されたのは1922年であるが、発表当時は、多くの人がこの小説を読み、その内容を議論したのであろうと推測される。
その結果、「真実は藪の中」という言い方が世の中に定着し、広辞苑にも登載されることになったのであろう。しかし、現時点での、映画「羅生門」の知名度に比べると、芥川の小説「藪の中」の知名度は格段に低く、読んだことのない人が多いと思われる。天国の芥川は、このことをどう思っているであろうか?なお、“闇の中”、“霧の中”等が、“藪の中”と同じような意味で使われているらしいが、“藪の中”の由来を考えると、これらは、勘違いによる誤用と思われる。

2014,3,20付記

 曽野綾子・金美齢の対談による「この世の偽善」という本のなかに、次のような件がある。
「日中国交回復に際して、日本は、台湾を中国の一部であると認めたわけではない。
当時の大平外相は、中国は、台湾は中国の領土の不可分の一部と主張し、日本側はそれに対して『理解し尊重する』とし、承認する立場を取らなかった。
つまり、日中両国が永久に一致できない立場をここに表した。」とある。

 このように、主権国家同士が対峙する場面では、それ以上の権威は存在しないから、お互いに同意できないことについては、agree to disagree ということにならざるを得ない。

 なお、一党独裁で、思想・言論の自由のない国が押し付けてくる「正しい歴史認識」なるものを、思想・言論の自由が保障されているこの国が「おっしゃるとおりでございます。」と、受け入れることができるはずもない。

2014,10,23付記

 僧侶で作家の玄侑宗久氏によれば、仏教では、「事実」なるものについて、次のように考えるとのことである。

 事実というのは「私がそう見た」という話ですから、その主体が変われば、見え方が変わるわけで、どっちが事実なのとなりますね?だから、事実というのはないんです。あくまで、私にとっての出来事なんです。

 この言は、映画「羅生門」の世界そのものである。仏教の世界で、このように考えられているというのは初耳で、驚きであった。

2014,10,23付記

 歴史学者の岡田英弘氏も、「歴史とは実在ではなくて、言葉で組み立てられたものであり、人間の世界を見る見方を表明したものである。従って、その見方は何十通りも、何百通りもあることになる。故に、歴史認識の共有などというのは不可能である。」との立場である。

 Aggressive な国の政治家は、このようなことも弁えず、他国に対して、臆面もなく「正しい歴史認識を持て!」と迫る。一方、passive な国の政治家は、言われっぱなしで黙っているだけ。民事訴訟では、相手の主張に黙っていると、自白したものとみなされる国際社会でも、似たようなものであろう。

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