人間の生は・・・
人間の生は・・・
人間の生はなべて軍事である。(西部 邁)
これは、西部邁氏が主宰する「発言者」という雑誌の平成8年6月号における同氏の論文の表題です。その論文の内容よりも、この表題のほうが印象に残っています。
人間の生が「全部」軍事だとは勿論思いませんが、かなりの程度には軍事であると思います。特に、企業の活動は本質的に戦いであり、弁護士の訴訟という仕事も、勝ち負け、和解があるからには、「戦い」です。そこでは、軍事的発想、すなわち、「戦略」が重要です。(企業経営が戦いである以上、「常在戦場」という言葉は企業経営者には当たり前のことだと思いますが、山本五十六も座右の銘としていたそうで、江田島の海軍兵学校跡の資料館に彼の揮毫が展示されていました。しかし、その実際の行動(特に、ミッドウェー海戦では、彼が率いる戦艦部隊は壊滅した南雲機動部隊の遥か何百キロも後方にいて何の役にも立たなかった!)に照らすと、白々しいという感じがしてなりませんでした。)
一見、「戦い」とは縁がなさそうな河合隼雄氏の「こころの処方箋」の中でも、「逃げるときはもの惜しみしない。」というタイトルのエッセイの中で、「現代の日本では、戦国時代のような戦いはないが、本質的には同じようなことがいろいろと行なわれると言っていいだろう。」とあります。
「戦わずして勝つ」ことが最高の戦略であるという意味で、一発の弾丸も放つこともなく、冷戦に勝ったアメリカの戦略は最高でした。
翻って、先の戦争における帝国海軍の戦略となると、何ともお粗末で憐れを催すほどです。特に、戦艦部隊は、日本海海戦を再現する「日米艦隊決戦」に備えてとやらで、逃げまくって「温存」され、戦争末期には、港の中で米軍機の爆撃で沈められてしまうという有様でした。
世界最大の戦艦、大和、武蔵の存在は、大いに宣伝して「戦争抑止力」として使うのが戦略でしょうに、その存在は国民に対してさえ「極秘」とされ、結局、何の働きもしないまま、海の藻屑とされてしまったのでした。
「あの戦争から学ぶことは何もない。」どころか、限りなくあるのです。